立秋水産の誕生と歩みOUR STORY

枕崎のかつお・さばの歴史と立秋水産の転換時期

古くから天然の良港であった枕崎は、水産業が盛んでした。特に近場でかつおやマグロの他、青魚が沢山獲れることもあり、漁師町として栄えていたそうです。
当時は、鮮度を保持する技術が無かったため、獲れた魚は直ぐに陸に揚げて「焼く・煮る・干す・塩漬け」と言った加工が行われていたそうで、漁村特有の生活体系があったと推測されています。

水揚げされた魚

ある時期になると、燻す製法が伝来し、鰹節を筆頭に長期保存の可能な節製法が確立されました。
それにより、漁師が漁獲に従事し、他の住民が鰹節製造を担当するといった「分業による協業」が行われるようになり、地域総出で製造を行うようになったそうです。
漁師以外の住民の中でも男女で役割が分かれていたそうで、男衆は加工業、女衆は行商を担当していました。行商では最初、山向こうの地域に出向き、物々交換を行なっていましたが、それも段々と物々交換から販売に移り変わっていきました。

煮熟作業

時は流れ、地域住民総出で行っていた加工業を商いとする会社が増え始めます。戦後、戦争から生還した弊社代表「立石浩平」の祖父と曽祖父は、小さな荒屋から創業し、手間暇をかけた上等な鰹本枯節を作っていたそうです。ここで私(立石浩平)が感慨深く思う、祖父の昔話をご紹介します。ある日、いつものように朝から市場の競場に、荷車を引いて鰹を買いに行ったところ、気に入った鰹を一匹も買えなかったことがあったそうです。祖父は、そのことに不貞腐れて、その日は仕事をせず、同じように鰹を買えなかった友人を引き連れて、近くの食堂で焼酎を泥酔するまで飲み続けたそうです。この話を聞かされた当時の私は、何気ない思い出話と気にも留めておりませんでしたが、今思うと、なんて自由な時代だったのだろうと感慨深く思います。

漁港の男達

弊社が、創業から約30年の節目を迎えて法人化した、先代が東京の日本橋にある鰹節問屋に修行に行っていた時代、サバ節との衝撃の出会いがありました。当時から日本橋では、定期的に全国各地で造られた節類の競りがありました。
薩摩では鯖節は、比較的安定価格で取り引きされていましたが、その競りでは薩摩の鯖節(特に屋久島産の鯖節)が、非常に高価な価格で取り引きされていたのです。
この非常に高価な価格で取り引きされる薩摩の鯖節と出会って、同じ鯖節でも取り引きされる場所によって、その評価や価値が大きく異なることを知り、薩摩の鯖節に改めて誇りを感じたことで、薩摩で新たにサバ節を作る事を決心しました。
日本橋の鰹節問屋での修行を終えて帰郷した先代は、地道にサバ節製造に取り組み始め「良い物を作る事」を念頭に企業努力を続けました。現在もその姿勢が、当代に引き継がれています。

自慢の節

工場PLANTS